地歌 じうた
三味線音楽は種類が多い
三味線の音楽には、たくさんの種類があります。そして遣う楽器も微妙に違いますし、専門家も異なっています。たとえばギターでも、クラシックギター、フラメンコギター、アコースティックギター、エレキギターなどに分かれているのと同じです。ですから、ばくぜんと「三味線を習いたい」と思っても、どの種目を習いたいのかを考えて決めなければなりません。ここでは当会のメインジャンルである三味線音楽、地歌の説明を致します。ただし当会は地歌のみしているわけではありません。
地歌は地唄とも書き、三味線音楽の一種目です。三味線音楽は大きく分けて「歌いもの」と「語りもの」があり、地歌は前者に属します。歴史的に最も古くから存在する三味線音楽であり、今日の多くの三味線音楽も、みな地歌から分かれて発展したと言えます。主に京、大阪を中心とした関西で発展し、やがて名古屋でも盛んになり、更には中国地方、四国九州や仙台で広まりました。江戸では元禄以降になると地歌から長唄が分かれて発展したことや、また江戸系諸浄瑠璃の興隆などにより、地歌は一般的ではなくなりましたが、明治維新後に再び東京に進出し、以後東日本にも広く普及しました。
三味線の歴史は四百年
桃山時代に琉球より渡来した中国楽器「三絃」は、平曲を演奏していた盲人音楽家たちに採り上げられて、日本的な改良、洗練が加えられて三味線となりました。その最も初期の頃の楽器として、豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線「淀」が現存しています。
江戸時代の初めには盲人音楽家たちが次第に芸術的な楽曲を作るようになり、最初の作曲家として石村検校が知られています。こうしてまず最も古い楽曲形式の「三味線組歌」が多数作られました。この時期の大家としては柳川検校、八橋検校がいます。一方虎沢検校は芝居の伴奏で有名で、これは浄瑠璃として盲人音楽家の手を離れて発展して行きます。
地歌ではやがて京都の野川検校、江戸の浅利検校、佐山検校らにより「長歌」「端歌」が生まれ、更に「作もの」「手事もの」等の形式が次第に整えられて行きました。
18世紀半ばは長歌、端歌の全盛時代で、大阪の鶴山勾当、藤永検校、継橋検校、政島検校、 玉岡検校、豊賀検校らが膨大な作品を残しています。一方名古屋の藤尾勾当が、能の詞章を取り入れた 「謡もの」の曲群を作りました。また滑稽な内容の「作もの」や、芝居用の曲も作られたりして、地歌のヴァリエーションは非常に豊かになりました。
同じ頃、曲中に置かれた楽器だけの間奏部(手事-てごと)を長く発展させ、三味線の技巧を追求した「手事もの」が作られるようになりました。そして歌よりもむしろ手事の器楽性に重点を置いた曲が作られるようになります。18世紀末に大阪で活躍した峰崎勾当がこの形式を完成させていくつもの名曲を残し、それを受け継いで三つ橋勾当が長大な曲を作りました。
文化文政の頃になると手事もの作曲の主流は京都に移ります。松浦検校が京風な洗練を加えた手事ものの名作を多数残し、それに引き続き、菊岡検校、石川勾当、光崎検校、幾山検校、吉沢検校らの天才的な音楽家が次々と輩出して、幾多の手事ものを作曲しました。そして八重崎検校らによって複雑に絡み合う箏の旋律が付けられ、合奏の妙が追求されました。これらの手事ものを特に「京流手事もの」と呼びます。
現代ではこれら「手事もの」の曲が最もよく演奏され、それに次いで端歌、長歌や、箏曲の段ものが弾かれています。また宮城道雄以降、新しいスタイルの曲も作られ続けており、現代作品も少なくありません。それらには歌のない器楽曲も多く、歌がなくても「地歌」と言える曲がたくさんあります。
地歌は三味線音楽の中でも、主に純音楽として、演奏だけを鑑賞するために作られた曲が多いのですが、18世紀半ばまでの一部の曲には舞踊や劇の伴奏曲として作曲されたものもあり、それらの中から主に晴眼者の音楽家により、浄瑠璃や、歌舞伎舞踊の伴奏音楽として江戸長唄が分かれて発展して行きました。
またその一方で浄瑠璃の曲を地歌に取り入れたものもあります。
地唄舞は、純音楽として作曲された地歌曲に、後になって振りをつけたものであって、はじめから舞の伴奏用として音楽が作られたのではありません。
関西を中心に発展した音楽ですので、多くの曲で歌の旋律には関西方言のイントネーションが反映されています。
地歌の音楽的特徴
音楽としての地歌の特徴は、歴史も長く盲人音楽家らによって作り上げられ洗練されて来ただけに、三味線の技法が高度に発達し、特に繊細微妙な技法に富み、内面的、内省的です。また歌ばかりでなく、器楽的な展開も特に著しく、哲学的、高踏的な音楽表現も多いこと、多音的な合奏が色々な形で発達しているのも特徴です。特に箏曲や胡弓、尺八との交流により、三曲合奏が行われます。
その反面、劇的な内容、表現のものはあまり多くありませんが、他の三味線音楽である長唄や義太夫節、荻江節などにもさまざまな影響を与え続けて来ました。
地歌では、やや太めの棹の三味線が使われます。胴も長唄三味線に比べるとやや大きく、主に水牛の角に金や銀のおもりを埋め込んだ駒を使い、大きくて先が急に尖った専用の撥を使って演奏します。その音は、音量はそれほど大きくありませんが、まろやかで落ち着きと深みがあり、内面的で微妙な音楽表現に適しています。
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胡弓楽 こきゅうがく
日本独自の楽器
胡弓は日本独特の擦弦楽器です。形は三味線にそっくりですが、かなり小型で、長くゆったりと毛を張った弓で演奏します。もちろんその先祖は海外から伝来したものですが、その由来は謎に包まれています。中国の二胡類との直接的な関係にはなく、むしろ東南アジアに似た楽器があり、それらは更にアラビアの擦弦楽器ルバーブにつながっています。
胡弓が現れるのは三味線よりもやや遅く、江戸時代の初期です。最初、胡弓は門付などの民俗芸能で使われていましたが、やがて盲人音楽家に採り上げられるようになりました。中でも八橋検校は弓の形を改良し、短くて毛を強く張っていたものから、長くて毛を緩やかに張ったものに改良したと伝えられています。
18世紀に入ると専門の演奏家が現れ、江戸の藤植検校は四絃の胡弓を考案し、多数の曲を作って藤植流を始め、また大阪の政島検校も胡弓の名手で政島流の始祖となりました。京都には腕崎検校という名手がいて、その流れは腕崎流と名乗っています。また尾張の名手関松翁の伝承は松翁流として江戸に伝えられています。
胡弓は持続音の楽器同士として尺八との交流もあり、相互に楽曲の行き来もありました。
またこの時期には地歌や箏曲の曲を取り入れ、三味線や箏と合奏することも盛んに行われるようになりました。三種の楽器の合奏を「三曲合奏」と呼び、しばしば絵画の題材にもなっています。
幕末には名古屋の吉沢検校が胡弓にも優れ、「千鳥の曲」「蝉の曲」などの名曲を作曲しました。吉沢はまた地歌や箏曲への胡弓手付けにも手腕を発揮しています。
明治になると、虚無僧の占有でなくなった尺八が三曲合奏に進出し、胡弓は次第に用いられなくなります。しかし名古屋や東京では胡弓の伝統もよく残されました。
また宮城道雄は、調弦を五度低くした大型の胡弓を考案し、合奏に用いました。これを大胡弓、または宮城胡弓と呼んでいます。
当会の胡弓は、この、名古屋の吉沢検校の流れを直接受け継いでおります。
いっぽう、義太夫節などの劇場音楽や、各地の民謡、民俗芸能で奏する所があり、また儀式に使用する宗教もあります。
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箏曲 そうきょく
コトと呼ばれる楽器
我が国でコトと呼ばれる楽器の歴史は古く、すでに弥生時代には使われていたことが遺跡からの出土品から知られています。ただし、このコトはこんにち一般的にコトといわれる楽器ではなく、現在宮中の御神楽や久米歌などの国風歌舞で使われる六絃の「和琴 (わごん・やまとごと)」です。
また「琴 (きん)」は中国周代から存在する七絃の楽器で、文人君子のたしなみとして広く愛好されました。奈良時代に我が国にも伝わり、平安時代までは演奏されていました。また江戸時代にも再度明から伝来して一部で愛好されました。
箏曲の歴史
現在私たちが普通にコトと呼ぶのは「箏(そう)」で、これも奈良時代に唐から伝来し、雅楽の楽器として長く愛されて来ました。
安土桃山時代に、僧賢順が古来の箏の音楽や明から伝わった琴楽をもとに、九州で新しい箏の音楽である「筑紫箏(つくしごと)」をはじめました。「箏曲」と呼ばれる音楽はここから始まります。この賢順の孫弟子が八橋検校(やつはしけんぎょう)で、彼はそれまでの筑紫箏が儀礼的、瞑想的な音楽であったのを、より世俗的な芸術音楽として、近世にふさわしい新たな箏の音楽を創始しました。ゆえに、八橋検校は「近世箏曲の祖」と讃えられています。この時代の箏曲には「組歌」と「段もの」がありました。
八橋の孫弟子に元禄の頃に京都で活躍した生田検校がいます。彼までは、地唄と箏曲は共に盲人音楽家の専門とする音楽でありながら、全く別の音楽であり、三味線と箏を合奏させることはなかったのですが、生田検校に至って、地唄曲を箏に移して二種の楽器を合奏させることが始まりました。そのため爪の形も大きく変化します。このごしばらく箏曲の作曲は多くなく、地唄の肩を借りる形で箏曲も発展して来たため、地唄と箏曲は曲を共有するようになり、 次第に一体化し不可分の関係となって行きます。この流れを総称して生田流と呼ばれ、関西を中心に一大勢力となり、維新後は全国に広まり現在に至っています。
やがて文化の頃、大阪で活躍した市浦検校は、箏が三味線から離れた旋律を奏でることをはじめ、合奏効果を一段と高めました。これを「替手式箏曲」と呼びます。
その後これは京都で発展し、八重崎検校らが地唄の名曲に軒並み巧妙な箏の手付けをし、精緻で流麗な合奏音楽の黄金時代を迎えます。やがて八重崎の弟子の光崎検校が、もはや地唄三味線の技巧や作曲法の開拓が頂点に達した中、新しい創造の可能性を箏に見いだし、江戸時代初期の箏曲のスタイルや、当時流行していた中国音楽の音階要素を取り入れた箏だけの音楽を久しぶりに作ります。これを受け、名古屋の吉沢検校は雅楽を研究し、その美と要素を取り入れた閑雅な作品群を残しました。
一方江戸ではしばらく箏曲は衰退していましたが、18世紀の後半に山田検校が出て、江戸浄瑠璃の曲風を箏に移して、江戸人の好みに合致した曲を作り、評判を得ます。これが山田流箏曲で、関西中心の生田流と並ぶ大きな流れとなります。地歌とのつながりから器楽性の強い曲の多い生田流に比べ、山田流の楽曲は歌本位となっています。
明治維新を迎えると、上方では光崎や吉沢が拓いた路線が継承され、 地歌としての作曲は少なくなり、箏曲としての作品が次々と作られるようになります。この時代の箏曲を「明治新曲」と呼んでいます。明清楽や西洋音楽の影響を次第に受けて、多音的で明るく清新な曲が多いのが特徴です。
やがて宮城道雄が出て、本格的に西洋音楽を取り入れた作曲を始め、多くの名曲を残しました。低音箏である十七絃箏も宮城によって考案されました。また彼に続く作曲家たちにより、昭和初期はことのほか新作多く、この時代の曲を「新日本音楽」と呼んでいます。
戦後も箏曲の新作は盛んで、現代音楽としての発展などさまざまな方面において、箏曲は日本音楽の中でも主導的な立場にあります。

